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	<title>礼拝メッセージ</title>
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	<description>郡山コスモス通りキリスト教会の礼拝メッセージ</description>
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	<title>「つまずきの先に」</title>
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	<dc:creator>鈴木牧人牧師の宣教 &lt;att&amp;#115;&amp;#64;a&amp;#108;&amp;#116;&amp;#111;.oc&amp;#110;&amp;#46;n&amp;#101;&amp;#46;&amp;#106;&amp;#112;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
	<dc:subject>ローマの信徒への手紙</dc:subject>	<description>	9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
	9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
	9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
	9:33 「見よ、わたしはシオンに、／つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
	「見よ、わたしはシオンに、／つまずきの石、妨げの岩を置く」(9:33a)。パウロは、本日の箇所で神が私たちの前につまずきの石を置かれたことを語りました。私たちは、神を求めて生きようとする限り、真理を求めて生きようとする限り、どこかで、そのような石に向きあわされる･･･。信仰の歩みには、聖書のメッセージには、キリストを語る教会には、根本的なところで、そのようなこの世に対してのつまずきの石があると語ったのです。どうでしょう。すんなり受け入れられるでしょうか。私たちの教会はずっと「開かれた教会」というテーマを掲げて歩んできました。そんな中、地域に対して、この世に対して、少しでも教会に対する垣根を下げて、つまずきの要因を取り除こうと試みてきました。そして、それはとても大切なことだと思います。
	　本日の箇所で、パウロは神が私たちの前につまずきの石があると語っていますが、そのように語ったパウロ自身、生涯を通して、何とかして伝道の垣根を下げて、全ての人に届き易いように福音を語ろうとしてきた人物でした。パウロの有名な言葉の中に、自分はユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように、弱い人に対しては弱い人のようになったという言葉があります(Ⅰコリント9:20-22)。パウロはそのように全ての人に寄りそおうとし、何とかしてその人がキリストを受け入れられやすいようにと配慮してきたのです。でも、そんなパウロが、神は私たちの前にはつまずきの石を置かれたことを語ったのでした。いくら垣根を取り払っても、このことだけはどうすることもできない･･･。福音を語る限り、その人がつまずいてしまう要素があるんだ･･･。そのように語ったのです。
	　ある人が以前、こんなことを言いました。「イエス様という方は素晴らしいと思う。聖書も素晴らしいと思う。でも、聖書を読んでいて、イエスがおとめマリアから生まれたという記述が納得いかない。復活も奇跡も分からない。だから受け入れられない。信じられない」。あるいは、こんなふうに言う人もいました。「イエス様を救い主と信じれば救われる。そんなことで救われるなんて、信じられない」。こんなことも言う人がいました。「神は信じている。でも、何でイエス様じゃなきゃ駄目？それが分からない」。どうでしょうか。これらの言葉というのは、私たちの周りでも時々に沸き上がってくる言葉、思いではないかと思います。そんな中、これらの思いが私たちの中でむくむく大きくなると、それ以上、イエス様に近づくことができなくなって、躓いてしまうことがあるのではないでしょうか。そのように私たちというのは、現在も、イエス様に対して、色々なクエスチョンをもっていたり、つまずきの種を持っているのではないかと思います。私たちの前には今もつまずきの石があるのです。そんな中、私たちがイエス様のつまずいてしまう一番根っこにある思いというのは、自分には全てが分かっているという思い、自分は根本的に正しいと思っている思いと言えるのではないでしょうか。その思いがある限り、イエス様は受け入れられません。イエス様を見つけることはできないのです。こればかりは、その人自身が向き合い方を変えない限り、どうすることもできないのです。
	　本日の箇所で、パウロは、神が私たちの前につまずきの石を置かれたことを語りました。私たちがイエス・キリストに向き合おうとする時、信仰というものを考える時、このことはどこかでわきまえていなければならないテーマだと語ったのです。しかし、パウロは同時に次のようにも語りました。「これを信じる者は、失望することがない」(9:33)。これを信じる者･･･。私たちがイエス様に向かおうとする時、つまずきがある･･･。時にイエス様御自身が私たちにとってのつまずきになることさえある･･･。しかし、信じる者になりなさい･･･。パウロはそのように呼びかけているのです。つまずきの石につまずいたままで終わるのではなくて、信じなさい･･･。具体的に言うなら、自分には分かっているんだ、自分は正しいんだというところで留まることを辞めて、その思いを置いて、単純にイエス様を求めることです。そのようにイエス様と向き合っていくのです。イエス様に対して、何もかも分かりきっているような態度で向き合ったり、どこまでも自分の方が正しいという思いで向き合うことを辞めて、その思いが砕かれて、イエス様を見上げていく･･･。その時、私たちは、つまずきの先にイエス様との本当の出会いを経験していくのです。その時、私たちは「これを信じる者は、失望することがない」という御言葉の世界に生かされていくのです。共に信じる者となりましょう。
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	<content:encoded><![CDATA[<p>9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。</p>
	<p>9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。</p>
	<p>9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。</p>
	<p>9:33 「見よ、わたしはシオンに、／つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。</p>
	<blockquote><p>
「見よ、わたしはシオンに、／つまずきの石、妨げの岩を置く」(9:33a)。パウロは、本日の箇所で神が私たちの前につまずきの石を置かれたことを語りました。私たちは、神を求めて生きようとする限り、真理を求めて生きようとする限り、どこかで、そのような石に向きあわされる･･･。信仰の歩みには、聖書のメッセージには、キリストを語る教会には、根本的なところで、そのようなこの世に対してのつまずきの石があると語ったのです。どうでしょう。すんなり受け入れられるでしょうか。私たちの教会はずっと「開かれた教会」というテーマを掲げて歩んできました。そんな中、地域に対して、この世に対して、少しでも教会に対する垣根を下げて、つまずきの要因を取り除こうと試みてきました。そして、それはとても大切なことだと思います。</p>
	<p>　本日の箇所で、パウロは神が私たちの前につまずきの石があると語っていますが、そのように語ったパウロ自身、生涯を通して、何とかして伝道の垣根を下げて、全ての人に届き易いように福音を語ろうとしてきた人物でした。パウロの有名な言葉の中に、自分はユダヤ人に対してはユダヤ人のように、律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のように、律法を持たない人に対しては律法を持たない人のように、弱い人に対しては弱い人のようになったという言葉があります(Ⅰコリント9:20-22)。パウロはそのように全ての人に寄りそおうとし、何とかしてその人がキリストを受け入れられやすいようにと配慮してきたのです。でも、そんなパウロが、神は私たちの前にはつまずきの石を置かれたことを語ったのでした。いくら垣根を取り払っても、このことだけはどうすることもできない･･･。福音を語る限り、その人がつまずいてしまう要素があるんだ･･･。そのように語ったのです。</p>
	<p>　ある人が以前、こんなことを言いました。「イエス様という方は素晴らしいと思う。聖書も素晴らしいと思う。でも、聖書を読んでいて、イエスがおとめマリアから生まれたという記述が納得いかない。復活も奇跡も分からない。だから受け入れられない。信じられない」。あるいは、こんなふうに言う人もいました。「イエス様を救い主と信じれば救われる。そんなことで救われるなんて、信じられない」。こんなことも言う人がいました。「神は信じている。でも、何でイエス様じゃなきゃ駄目？それが分からない」。どうでしょうか。これらの言葉というのは、私たちの周りでも時々に沸き上がってくる言葉、思いではないかと思います。そんな中、これらの思いが私たちの中でむくむく大きくなると、それ以上、イエス様に近づくことができなくなって、躓いてしまうことがあるのではないでしょうか。そのように私たちというのは、現在も、イエス様に対して、色々なクエスチョンをもっていたり、つまずきの種を持っているのではないかと思います。私たちの前には今もつまずきの石があるのです。そんな中、私たちがイエス様のつまずいてしまう一番根っこにある思いというのは、自分には全てが分かっているという思い、自分は根本的に正しいと思っている思いと言えるのではないでしょうか。その思いがある限り、イエス様は受け入れられません。イエス様を見つけることはできないのです。こればかりは、その人自身が向き合い方を変えない限り、どうすることもできないのです。</p>
	<p>　本日の箇所で、パウロは、神が私たちの前につまずきの石を置かれたことを語りました。私たちがイエス・キリストに向き合おうとする時、信仰というものを考える時、このことはどこかでわきまえていなければならないテーマだと語ったのです。しかし、パウロは同時に次のようにも語りました。「これを信じる者は、失望することがない」(9:33)。これを信じる者･･･。私たちがイエス様に向かおうとする時、つまずきがある･･･。時にイエス様御自身が私たちにとってのつまずきになることさえある･･･。しかし、信じる者になりなさい･･･。パウロはそのように呼びかけているのです。つまずきの石につまずいたままで終わるのではなくて、信じなさい･･･。具体的に言うなら、自分には分かっているんだ、自分は正しいんだというところで留まることを辞めて、その思いを置いて、単純にイエス様を求めることです。そのようにイエス様と向き合っていくのです。イエス様に対して、何もかも分かりきっているような態度で向き合ったり、どこまでも自分の方が正しいという思いで向き合うことを辞めて、その思いが砕かれて、イエス様を見上げていく･･･。その時、私たちは、つまずきの先にイエス様との本当の出会いを経験していくのです。その時、私たちは「これを信じる者は、失望することがない」という御言葉の世界に生かされていくのです。共に信じる者となりましょう。
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<item rdf:about="http://koriyama-cosmos.com/modules/wordpress/index.php?p=104">
	<title>「私は弱いときにこそ強い」（聖書箇所のみ）</title>
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	<dc:date>2008-02-24T11:00:00+09:00</dc:date>
	<dc:creator>鈴木牧人牧師の宣教 &lt;a&amp;#116;ts&amp;#64;&amp;#97;lto&amp;#46;&amp;#111;&amp;#99;n&amp;#46;&amp;#110;e.jp&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>	<description>	コリントの信徒への手紙　Ⅱ　12:1～10
	 12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
	 12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
	 12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
	 12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
	 12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
	 12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
	 12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
	 12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
	 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
	 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
	※　日本バプテスト連盟宣教部長　播磨　聡牧師（栗ヶ沢バプテスト教会協力牧師）によるメッセージが行われました。

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	<content:encoded><![CDATA[<p>コリントの信徒への手紙　Ⅱ　12:1～10</p>
	<p> 12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。</p>
	<p> 12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。</p>
	<p> 12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。</p>
	<p> 12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。</p>
	<p> 12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。</p>
	<p> 12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、</p>
	<p> 12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。</p>
	<p> 12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。</p>
	<p> 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。</p>
	<p> 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。</p>
	<p>※　日本バプテスト連盟宣教部長　播磨　聡牧師（栗ヶ沢バプテスト教会協力牧師）によるメッセージが行われました。
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