「持っていくもの、持っていかないもの」 宣教者・鈴木牧人牧師
ルカによる福音書9:1-6
◆十二人を派遣する
9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。
下着も二枚は持ってはならない。
9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を
払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
《持っていくもの、持っていかないもの》
本日の箇所は、イエス様が十二人の弟子たちを福音宣教のために遣わされたという記述です。ここでイエス様は弟子たちに対して「旅には何も持って行ってはならない」(9:3)と言われました。何故、このようなことをおっしゃったのでしょうか。何より思うのは、イエス様はここで弟子たちに対して、イエス様に従う歩みには、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものがあるんだということを教えられたのではないかということです。イエス様に従う者として、きちんと向き合わなければならない重荷と、主に委ねることができる重荷というものがあることを教えておられるのです。
《背負わなくてよいもの》
それでは、持っていく必要がないものは何かと言うと、生活の糧に対する重荷でした。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(9:4)。あなたがたが福音宣教のために出ていくなら、その町、その町で、助け手を求めなさい。主があなたがたに助け手を与え、必要を満たしてくださる・・・。イエス様はそのようにおっしゃっているのです。それから、もう一つ、弟子たちの伝道が成功するか、成功しないか、実を結ぶか、結ばないかということに関しても、あなたがたが責任を負わなくてもよいということをおっしゃっています。「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」(9:5)。だれもあなたがたを迎え入れないとしても、それはあなたがたが負うべき責任ではないから、彼らへの証しとして足についた埃を払い落とせばいい・・・。そのようにおっしゃっているのです。このように、イエス様は、弟子たちを福音宣教に遣わされるにあたって、生活の糧に対する重荷を負わなくていいし、弟子たちの働きが成功するかということに関しても、あなたがたが何もかも負担に考えることもないということをおっしゃいました。そのように弟子たちに背負わなくてよいものを教えられたのです。
《向き合うべき重荷》
これに対し、神の国を宣べ伝えること、そして、病人をいやすこと、さらに悪霊に打ち勝つことについては、あなたがたが向き合うべきテーマなのだとお示しになりました(9:1-2)。
《悪霊に取りつかれた人》
悪霊に打ち勝つことについては、具体的な物語がルカ8:26-39に書かれています。悪霊とは、私たちを神様から引き離そうとする勢力です。そんな中、ルカ8:26-29に記されている悪霊に取りつかれた人は、本当の自分が分からなくなり、自分の居場所も見いだせなくなっていました。そんな中、自分が孤独で、価値のない存在であるかのように考え、苦しみ、叫び、自分で自分を打ちたたいていました。そのように、自分ではどうにもならない世界にがんじがらめになってしまっていたのです。それがここに登場する悪霊に取りつかれた人でした。イエス様はそんな悪霊に取りつかれた人のところに弟子たちを遣わされました。そして、その人に神の国の福音を伝えなさいとおっしゃったのです。
《病の中にある人》
さらに「病人をいやす」ということに関しては、ルカ8:40-56に書かれています。十二年間、出血が止まらないという病を抱えた女と会堂長ヤイロの物語です。彼らは共に長い間、どうにもならない痛みを抱え、苦しんでいました。そんな中、他の人には打ち明けられないような、分かってもらえないような痛みや悲しみ、やりきれない思いを抱えていたのです。それが、ルカ8:40-56に書かれていた人々でした。イエス様は、そんな人のところに行きなさい。そして、その人と連なっていきなさい。その人を慰め、その人を本当の癒しへと導く、神の力と神の愛を伝えなさいとおっしゃったのです。
《私たちが持っていくべきもの、持っていかなくてよいもの》
聖書の時代と今の時代とは色々と状況が違いますし、事情も違います。しかし、私たちがイエス様に遣わされていくにあたって、持っていくべきものと、持っていかなくてもよいものは、本質的に同じではないでしょうか。私たちは、改めて確認したいと思います。私たちが今、向き合っているものは、本当に持つべき重荷でしょうか。主に明け渡すべき事柄を抱え込んではいないでしょうか。一方で、私たちが託されている大切な務めがなおざりにされてしまっていないでしょうか。このことがこんがらかってしまうと、私たちの伝道の働きや、教会の歩み、そして、私たち自身の信仰もどこかおかしくなってしまうということがあるかも知れないと思うのです。

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