「いやしの先の『出会い』」 宣教者・鈴木牧人牧師
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。
4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
4:41 悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
本日の箇所には、シモン・ペトロのしゅうとめの癒しの記述が記されています。この記述は、マルコやマタイにも書かれています。ただし、本日のルカによる福音書では、このペトロのしゅうとめの癒しが、ペトロが献身する前の出来事として書かれているのに対して、マルコやマタイでは、ペトロが献身した後に書かれています。そのような微妙な違いがあるのですが、いずれにしても、ペトロはイエス様に従っていく献身の歩みをしていくかなり早い段階で、このしゅうとめの癒しの出来事を通らされていったようです。そして、おそらくペトロにとって、この癒しの出来事は、大きな経験だったのではないかと思います。
本日の箇所から、まず考えたいのは、イエス様によって癒されるまで、ペトロはどんな思いをして過ごしていたのかということです。ある時、ペトロのしゅうとめが高い熱を出して苦しんでいました。そんなしゅうとめの姿を見て、ペトロは気が気ではなかったろうと思います。大変心配したでしょうし、しゅうとめが苦しんでいる様子を見て、ペトロ自身も悩んだり、苦しくなったりしたのではないかと思うのです。しかし、ペトロにはどうすることもできませんでした。そんな中、切実な思いでイエス様を求めていったのです。まず覚えていたいのは、ペトロがイエス様の癒しを経験するまで、そのような悩みや苦しみを通らされたということです。
何というのでしょう。私たちは時に、信仰について、信仰が強いとか弱いと言ったり、大きいとか小さいという言い方をすることがあります。しかし、私は、必ずしも、信仰が強いとか弱いとか、大きいとか小さいということが、重要なことではないのではないかと思っています。私たちにとって本当に重要なのは、たとえ私たちの信仰がどんなに弱く小さく思えたとしても、その信仰の中に命があるか、どうかということです。そして、さらに思います。命ある信仰とはどのような信仰なのでしょうか。私たちは命ある信仰に生かされていく時、何らかの呻きを通らされるのではないでしょうか。そのように、信仰において呻きをもつということを通して、私たちは命ある信仰に与っていくのではないかと思うのです。
私たちの信仰の歩みは、どんな時も順風満帆であるという訳にはいきません。時には波風が吹いたり、大きな壁にぶちあたったり、信じられないような問いの前に立たされたりすることがあります。そんな時、私たちは平然としていられるでしょうか。もし、そんな時に平然としている信仰のあり方が、立派な信仰、大きな信仰と言うとするなら、それは少し違うのではないかと思います。生身を欠いているというか、本当の声が聞こえてこないのではないかと思うのです。私たちはやはり平然としていられないこともあれば、倒れてしまいそうになることもあるのです。問題があっても、その問題にすら気づかず、自分が大切なものを見失っていることすら気づかずにいることはあるかも知れません。そのような人は見た目には、平然としているように思えるかも知れません。しかし、私は問題を見ずに平然としているよりも、目の前の問題に呻いている信仰のほうが、よほど真実で命ある信仰ではないかと思います。私たちは命ある信仰に生きようとするがゆえに、時に呻き、弱くなったりすることもあれば、自分がちっぽけに思えてしまうこともあるのです。しかし、そのような思いを通らされながら、イエス様を見上げ、イエス様に祈っていく・・・。そのような中で、本当のイエス様との出会いを経験し、イエス様の間に命の通うような関係が建て上げられていくのではないかと思うのです。
改めて、本日のペトロについて考えてみたいと思います。大切なしゅうとめが病に伏せ、苦しんでいた・・・。そんなしゅうとめの姿を見て、ペトロは平然としていることはできませんでした。心はゆさぶられ、苦しみ、呻くような思いを通らされたのです。しかし、そのような経験を通らされていく中で、ペトロはイエス様との大切な出会いを経験していったのです。そして、イエス様との真実の関係、本当に命の通うような関係を築くことができたのではないでしょうか。もちろん、ペトロとイエス様との関係が築かれていった出来事というのは、5章に記されているペトロの召命の物語のほうが決定的なものだったのかも知れませんが、このしゅうとめの癒しの経験も、かけがえのない経験だったのだと思います。
本日の箇所で、イエス様は、ペトロやペトロのしゅうとめの呻きを聞き、応えてくださいました。同じように、イエス様は、私たちの呻きも聞いていてくださっています。知っていてくださっています。そして、その呻きに具体的に応えてくださる方なのです。

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